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2013-08-08 15:38 | カテゴリ:日英文化比較
>>第1回から読む

「イギリスは、とくにカントリーサイド (田舎) が美しい」 と言いふるされてきました。この “カントリーサイド” でも、日本の旅行者に人気があるのは、ロンドンから北西に40マイル、60キロのオックスフォードからコッツヲォルド地方、さらに北へ、シェクスピアが、恋人のアン・ハザウェイと暮らしていたストラットフォード・アポン・エイボンあたりか、せめてサマーセットあたりまでであります。

 イギリスでは、古くから童話や物語、たとえば、赤ずきんちゃんとか、ロビンフッドなどでは、なぜか豚と狼がよくでてきて、舞台はいつも深い森であります。マクベスなどもいい例です。

  実は英国は、中世まで森林の国だったからなのです。古代から数百年前まで、ヨーロッパでも有数の深い森、原生林にイギリス全土がおおわれていたのです。

いまテレビの映像などで紹介されている英国の、美しいカントリーサイドの自然の眺望、一年中真冬でも緑の芝生におおわれた牧場やヴィレッジをとりまく森や林は、ほとんどが、後世に人の手で再生された人口美なのであります。

 英国は国土の面積が日本の60%、人口は日本の半分ですが、国土の80%が平地、20%が高地、日本の逆であります。高地といっても、1500メートル以上の山もなく、ほとんどなだらかな地形で、河川もゆるやかに蛇行している。居住可能の有効地が日本の約2.5倍、人口密度でいうと、日本の5分の1。だから日本と同じ狭い島国ながら居住区がゆったりとして、建て込んでいないのです。

 狩猟時代から1000年前まで、人々は森とともに生活していて、森林は自然に再生される資源でした。スコットランド地方などでは、燃料として石炭や、ピート、泥炭をつかい、建築用の石材にも恵まれていたので、材木は重要資源ではなかった。

 有史以来、ストーンヘンジに象徴される石の文化のケルト民族が、5、6世紀になってドイツの山岳民族のアングロと、サクソンの両民族に征服され、木材文化が主流になった。

 高校のころ、世界史で習った “ エンクロージャー (いわゆる、囲い込み運動) ” が16世紀から始まりました。羊を飼うために公有地・未開墾地を私有化しました。すなわち、大地主、ジェントリーやナイト (騎士団) の起源です。

 樫の木などナラの木の種類を主とする原生林のなかで、ドングリを飼料とした養豚から、森林を伐採し、低い樹木を組んだり、石を積んで囲いこんで、広い牧場の開発が低地部からすすみました。

 これが、英国の北部の地方では低い石垣の境界線となった。デヴォンなどの南西部では、狭いカントリーロードの両側から迫ってくる、2、3メートルの高さのヘッジ、分厚い柴垣となりました。古いものでは4、500年も前からある英国特有の私有地の境界線です。狼と豚の森から、羊の牧場へ移行したのであります。

 その結果、羊毛が増産され、毛織物産業が発達しました。高品質のウールと、合理化がすすんだ英国の牧畜業はヨーロッパを席巻したのです。今でもEUにおいて、イギリスの畜産業の競争力は、群を抜いています。

 つづいて、西暦1600~1800年、産業改革期をはさんで、中世からの原生森林の4分の3が失われ、さらに減少した。とうとうイギリスでは、熊も狼も絶滅してしまいました。

 それでは、再生された自然──すなわち、現在のたいへんに豊かな野生の動植物の生息環境は、一体どのようにして造りあげられたのでしょう。伐採したあとの代替植林の最古の記録は、1759年で、20世紀にはいってから、やっと計画的な森林保全の方策がとられるようになったのです。

 100年前に “ナショナル・トラスト” という民間の自然保護団体ができました。いまでは、世界に類例がないほど大規模な組織となり、200万人の会員に支えられ、6000人の職員が働いています。

 たとえば、イングランドの北部、Lake District、湖水地方を舞台にした大ベストセラーの著者、ベアトリックス・ポッターも、1900年に 『ピーター・ラビット物語』 の多額の印税を寄付し、財団の基礎づくりに貢献しました。

 ロンドン郊外にあるキュー・ガーデンで有名な王立植物研究所も中心となり、自然破壊の張本人の牧場主たちや、貴族や、政府機関も、こぞって、森林や自然環境の回復と、あわせて歴史的遺産の保全維持につとめてきました。

 けれども、いま、あれほど美しく豊かに見えるイギリスのカントリーサイドの風景ですが、現在、英国の森林地帯の全面積は、国土全体のたった7%に過ぎません。しかも、古代から現存している原生林は、国土のたった1%残っているだけなのです。100年前から多大な努力を重ねてきても、いったん破壊してしまった自然や森林は、回復、再生、復活することは、それほどに困難なことであります。

 イギリスには“モア”、あるいは“モアランド”とよばれる場所がいくつもあります。エミリー・ブロンテの 『嵐が丘』 Wuthering Heights の舞台にもなったのは、イギリスの北部、ヨークシャーにある、このイギリス独特のモアです。

 モアあるいは、モアランドは、小説の翻訳や、英和辞書をひくと、「荒れ地、ヒースの生えた排水の悪い高原地帯」などと訳されています。が、実は、丘陵と台地からなる広大な湿地帯で、いくつもの緑の原野が集まっていて、灌木と渓流と小さな湖水とからなり、あちらこちら丘陵の頂上には “トォ” とよばれる花崗岩の巨石が重なりモニュメントのように露出して、モア特有の高地を形づくっています。野生のポニーや、羊が放牧されています。ほとんどのモアランドには大きな川の源流があります。

 イングランドやスコットランドのあちらこちらにある、これらの広大なモアも、かつては、有史以前から巨木が繁っていた深い原生森林でした。が、豊富な水源だったので、樹木を伐採した後は、湿地帯に変わってしまい、植林しても苗木がしっかり根付かないで、いわゆるモアランドになってしまった。その代表的なものが、ダートモア国立公園です。ロンドンから南西約400キロ、デヴォンシャーの中央に位置しています。

 イングランドの南西部のこの地方は、“ローリング・ウェスト” とよばれ、丘陵や台地が高く低くうねっていて、風景はコッツヲォルド地方あたりのように平坦ではない。

 美しいダートモアは、海抜700㍍、面積1,000平方㎞、周囲130㎞のまさに、ローリング・ウェストの広大な高地であります。

 リバー・ダート、ダート川は、このダートモアの高地の中心を水源として、河口の町、ダートマスまで、たった40㎞ほど、さまざまな峡谷をへて流れくだる。水量は豊かながら、ごく短い川なのです。リバー・ダートの河口、ダート・マウス、すなわちダートマスは、海軍兵学校があるので有名です。

 わたしが10年来かかわってきた小さな村は、ダートマスの河口から10㎞ほど上流にあります。このあたりでリバー・ダートが蛇行しはじめ、美しい入江に面した丘に広がる人口1500人のかわいいヴィレッジです。この村は、30年も前に、この地域のカウンシルによって、特別風致保存地区に指定されてから、住宅の新築が許されないので、ほとんど人口がふえていません。

 実は、イギリス人でさえ、そんなイングランドの西の果てのこのあたりに、それほどスケールの大きい、起伏に富んだ素晴らしい景色と、しかも、たいへんに人柄がいい住民が住んでいるカントリーサイドがあることなど、想像できない人が多いのです。

 なにしろ村には街灯がありません。街灯をつけると、ヴィレッジの夜空に輝く満天の星の美しい夜景を損なう、という理由からです。この申し合わせにより、平和な村の夜道を、村人たちは昔ながら、トーチをもって歩いております。

 大袈裟なスローガンを掲げたり、村には取り立てて条令などはありません。けれど、ひとりひとりが、自然環境を保全し、野生生物を保護して、素朴な “エコ・ヴィレッジ” とする何気ない地道な努力をしてきた。

 誰もが生き甲斐を実感でき、失われつつある人間性の再生回復がはかれる。お互いに無理なく助け合い奉仕しあって、それぞれが自らのベストを尽くして責任を果たし、楽しさを分かちあう。多彩な趣味を通じ、幅広い文化交流とエコロジーとが調和している。地味で目立たない“小さなユートピア”に近いコミュニティーといえるかもしれません。

 デヴォンシャー南部のこの一帯は、イギリスで最も温暖な気候に恵まれていて、リンゴなど果物がよく実るのです。アップルサイダーは、アルコールが15、6%もあるかなり強いリンゴ酒です。昔から、アップルサイダーと、サーモンがこの村の名産でした。いまでも、鮭が産卵のためリバー・ダートを遡ってきます。この村の入江が鮭網漁の中心なのです。けれども、鮭網漁は、古くからの5軒のファミリーだけに許され、資源保存のために漁をしていい期間と時間まで厳しく守られています。

 このあたりの緯度は、北海道よりさらに北、樺太あたりに位置しますが、メキシコ暖流がイギリスの南端にぶつかり、ちょうどイギリスの本土を包むようにして北海に抜けていく。それゆえ、厳冬期でさえも、イギリス海峡とドーヴァー海峡の南側に横たわるヨーロッパ大陸の国々とくらべ、よほど温暖なのであります。

 これに目をつけて、早くも5、6世紀には、北ドイツの山岳地帯からサクソン部族が侵攻してきて、ケルト人など先住民族を追いだして住みついてしまったのです。だから、アングロ・サクソン民族の血のなかには、海賊としてきわめて優れた遺伝子が継承され、大英帝国として後世に名を残すことになったにちがいありません。

 村の中央、丘のてっぺんには旧い教会がたっていて、美しい入江に影をおとしています。1066年、ノルマン・コンクェストのウィリアム征服王として有名な、現イギリス王室の初代の国王が、ヘイスティングの戦いで、イングランドのハロルド王を破った。そのときには、すでにこの教会堂のチャーチタワーはあったのです。

 この教会堂の四角い塔は、それよりはるか昔、9世紀にサクソン族によって築かれた “サクソン・タワー” の簡素で荘重な特徴そのまま保っている。イギリスのほとんどの教会の塔は12世紀になってヨーロッパ大陸からきたカトリックの神父たちによって改装され、ゴシック様式の装飾がほどこされています。

 英国では、チャーチタワーといえば、パブがつきものです。デヴォン地方のこのあたりではどんな小さな村へいっても、教会の塔が見えたら、その隣りにはかならず “チャーチハウス・イン” とよぶパブがあります。むかし、教会を建てたとき、神父と石工と大工は、まず、チャーチハウスを建てて、そこに寝泊まりしながら10年も20年もかけて教会を築いたのであります。教会堂が完成したら、チャーチハウスを、宿屋、インにしたのです。新聞も電話もない昔は、村人にとってチャーチハウス・インにくる旅人は、貴重な情報源だったのです。

 人口たった1500人のこの村に、なんとパブが3軒も繁盛しており、この村の人たちは、みんな気がいい、酒好きばかりなのです。ヴィレッジャー、村人たちは、それぞれ贔屓があって、この村の大切な社交場で、いまでも情報の収集場所なのです。例のクラスシステムの階層ごとに、それぞれcomfortable 、いちばん居心地のいいパブに自分の居場所と好みのビールをきめるのです。

 さまざまな過去と、境遇の人びとが住む小さなコミュニティー。けれども、お互いにこれまでの経歴も、利害も関係がない。個々の人柄、人としての、それぞれの魅力だけがポイントとなる。いつも和気あいあい。酒がはいれば、他愛ないジョークと駄洒落をやたらにとばして、互いにからかいあい、無邪気に楽しむ。

 三井物産では海外勤務の注意事項に “政治と宗教の話はしないこと” がありました。けれども、今では、この村ではトニー・ブレアの話になると、わたしが意見を求められたりもします。意外なことに、チャーチハウスとパブの起源を知らない人も多いのです。日本人だからと、誰も人種などにこだわらない。パブでは政治談義も盛んで、談論風発、ときには、まさに落語の世界であります。

 話が盛り上がれば、地元勢のデヴォン・アクセントと、よそからきてこの村の虜になって住みついた人々のそれぞれ出身地の方言や訛、聞き慣れないスラングが激しくとびかう。はじめの頃はヴィレッジャー同士の会話の半分も消化できないで、お手あげでした。

 もちろん、わたしがからかわれることもありましたが、一体、何をからかわれているのかさえ分からないときもあったので、始末が悪いのです。けれども、そんなときには、隣の誰かが、きまって声をかけてくれます。
「気にはしていないだろうね。これがヴィレッジャーになった証拠なんだよ」と。

 人口1500人のこの村の半数の人々は、いわば “引退族” です。ロンドンからばかりでなく、イギリスのあちらこちらから移り住んでいる。定年後の高齢者ばかりではなく、年齢もさまざま、それぞれユニークな過去をもっている人が多いのです。

 イギリス伝統の海運業や銀行で働いていた人びと。アジアやアフリカなど、大英帝国の旧植民地だった国々で活躍していたいわゆるエクスパトリエット(海外へ出稼ぎの人)や、医者や学者だったひとも沢山います。すでに、若いE¬commerceの成功者まで流入してきました。その分、高齢者が、つぎつぎに、村の教会の裏にあって、美しい入り江をみおろす素敵な墓地の方へ移動するのであります。

 もともと、この村は国際感覚が豊かな土地柄だったのです。この村からほど近い海軍士官学校があるダートマスや、かつて、ノルマンディー侵攻、 “D ¬day” の基地となった大きな軍港、プリマスに勤務していた海軍の軍人たちが、そもそも住みつきはじめたのです。

 まるで隠れ里のように素朴な村ですが、ヨットやクルーザーをはじめ水のスポーツにも最適な村なのです。“移住者” に共通していることは、千年前から住んでいる地元の村人を心から尊敬し、大切にしてきたことです。

 地元育ちのヴィレッジャーも、その辺をよく心得ていて、コッテージの改装や補修工事、大工仕事、植木や塗装仕事など、一手に引き受け、安価なうえに、誠心誠意、移住してきたヴィレジャーたちの面倒をみてくれる。

 ヴィレッジャーたちは、クラスシステムの階層を越えて、まったく屈託のない好人物ばかり。村人は、きわめて友好的で、お互いに相手の人柄や人間的な魅力を引き出す努力をおしまない。

 わずかに1500人ながら、この村には、村民参加の趣味の団体が、25グループ以上もあります。

 美術クラブを例にとると、周囲の村落の住人もいれて会員350名。うち20名は、ほとんどプロの画家といえるほどの腕前です。高齢者も多いので200名ほどがアクティブ・メンバーであります。毎週、ヴィレッジ・ホールにおいて、3時間のワークショップ、制作実習会と合評会をおこなう。月1回会員が1点ずつ作品をもちより、夫婦同伴の展示会、兼、懇親パーティーをもよおし、みんなの投票で最優秀賞をきめて表彰します。さらに月1回、油彩、水彩、アクリル、パステルと画材ごとに著名な画家をよんで、デモンストレーション、指導をしてもらいます。

 年に1回、夏、カーニバル、村祭りの週に、各自3点もちよりヴィレッジ・ホールが一杯になるほどの、大展覧会を行なう。各種の賞が用意されています。各人が自分の絵に値段をつけて展示即売し、一部をクラブに寄贈してアート・クラブの活動資金とする。といった、徹底したクラブ活動がなされております。

 ほかにも、園芸、農芸、手芸、陶芸、演劇、詩作、ボート、料理やケーキづくりなど、それぞれプロの腕前の人が沢山います。

 夏は、各種の園遊会、ガーデン・パーティーが盛んにもよおされ、村の庭園自慢たちが、広い美しいイングリッシュ・ガーデンを開放して、チャーチの資金づくり、ヴィレッジ・スクールへ施設の寄贈などボランティア活動も活発です。英国の男たちは、徹底して飲みますから、毎回、腹をかかえるほど可笑しいことや、奇抜な出来事がおきて、そのたびに村の話題づくりにはことかきません。

 こんな小さな村でも、なんでも揃えた園芸センターが3カ所もあり、ほとんどの村人は、“グリーン・フィンガー”です。庭いじりに熱心な人をグリーン・フィンガーとよびます。いちど自然を破壊しつくしたイギリス人の末裔たちは、いま、一生懸命、先祖たちの償いをしており、ヴィレッジャーたちは、みな一流の園芸家です。

 高温・多湿ですぐに病気が発生する日本の夏は、イングリッシュ・ガーデンを造ったり、維持するのは大変に難しい。やはり、こまめに剪定が必要な伝統の日本庭園が、日本の気候にはあっている、とつくづく思います。

 たしかにイギリスは、適温多雨ながら、乾燥している気象条件、そのうえ、石灰質の豊かな土壌は、草花や樹木の生育に適していて、ちょっとした園芸技術さえ身につければ、安価で容易にイングリッシュ・ガーデンが造れるように、すべての環境が整っております。

 親しい仲間同士の何組かが、順繰りに夕食によびあい、おしゃべりするのがみんな大好きです。近ごろイギリスは、日本食ばやり、仲間からの希望が多い。村の近くのブリックサム漁港には、ごく新鮮な内海魚がいろいろあがり、信じられないほど安い。みんなの喜ぶ顔をみると、有能なハウス・ハズバンドだと褒められたいばっかりに、食材集めと、さまざまな日本料理の工夫に、ワイフと競ってつい張り切ってしまいます。村の仲間のハズバンドたちは、みんな料理が上手で、それぞれがワイフ顔負けの得意分野をもっており、ワイフたちは、みなオダテ上手であります。

 次の作品として、この小さなユートピアの村人との生活について、愉快で可笑しいエピソードを満載して、出来れば本格的なスケッチ入りでと、工夫いたしておりましたが、日本の未曾有の出版不況のため、いまだに本にすることができません。

  止むを得ず、もっぱら絵描きに専念しております。

  ご清聴ありがとうございました。

                                    (完)









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2013-08-08 15:35 | カテゴリ:日英文化比較
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 イギリスの上層階級をよぶ言い方には色々あります。 まず、 “posh” 。 この語源は、 “Portside out, Starboard home” 「往きは左舷、帰りは右舷」 を簡略にしたものですが、ビクトリア女王の時代、世界の七つの海を支配していた大英帝国華やかなりし頃、植民地の統治者である上層階級の人々は、アジアの任地へは、大型の汽船で往復していました。そのとき彼らの汽船の客室は、南洋の強い日差しを避けて、往路は、左側に港や陸地が見える側、すなわち “Portside (左舷)”、逆に帰は、 ”Starboard (右舷)” の船室に寝起きしたから、いつのまにか、上層階級を “Posh” とよぶようになりました。

 もうひとつの呼称は、 ”toff” です。現保守党政権の首相、デイビッド・キャメロンと大蔵大臣、ジョージ・オズボーンは、ともに名門のパブリックスクール(全寮制私立学校)であるイートン・コレッジのあと、オックスフォード大学を卒業。 現政権は、自由民主党との連立内閣で、副首相の自由民主党党首ニック・クレッグは、イートン・コッレッジとハロー・スクールにつづく名門校ウィンチェスター・コレッジからケンブリッジをでております。

 1721年の初代首相ロバート・ウォポール以来、現首相デイビッド・キャメロンまで、51名いる首相のほとんどは、イートン、ハローほか名門パブリックスクールから、オックスブリッジの卒業生です──すなわち、イートン・コレッジ卒業が19名、ハロー・スクール卒が7名、その他の名門パブリック・スクール8校から1名ずつ合計34名。ただし、主に18世紀の首相のうち8名は爵位が高い貴族で、個人教授による手厚い教育を受けている。残る首相の中等教育は、他の私立学校が2名、普通の公立学校が6名、不明が2名となっています。
さらに高等教育は、オックスフォードが21名、ケンブリッジが10名、その他の大学が3名、陸軍士官学校が2名、個人教授の貴族が9名、高等教育を受けなかったのが5名、不明が2名となっている。

 上流階級の人々を新聞紙上などでは、”toff” とよんでおり、世間ではそれらの人々に支配されることに、あまり抵抗することなく、社会的に不平等……生い立ちによるハンディキャップの結果だ、などと疑問視したり強く批判したりすることがなく受け入れています。

  戦後、労働運動が激しくなった1970年代には、労働組合出身の首相がでたり、また、リンカンシャーにある片田舎の町、グランサムの雑貨屋の娘、マーガレット・サッチャーは、これら toff を保守党内閣の閣僚から次々に追い出し、自分の後継者には、あえてサーカスのブランコ乗りの息子で、中等高等学校中退のジョン・メイジャーを選びました。 さらに、1997年、新生労働党として躍り出たトニー・ブレアは、ごく低い階層出身の野心的な父親に育てられ、スコットランドにあるパブリックスクールからオックスフォード出の、労働党としては異色の首相として、様々な改革を行い、10年間政権を維持しましたが、後継者のエディンバラ大学出身のゴードン・ブラウンが、無能だったため、2010年に、政権は再び、toff の手にもどり、保守党デイビッド・キャメロンに政権を奪取、労働党は衰退を余儀なくされています。

  労働党がすっかり落ちぶれたため、保守党政権は、現在、きわめて安泰であります。保守党には、有名なパブリックスクールからオックス・ブリッジ出身の若い予備軍が控えて、次の出番を待っているのです。

  12世紀に設立されたオックスブリッジは、歴代の国王や女王の勅許状を得てできた 『コレッジ』 は、それぞれ独立自治の法人であり、日本でいう国立大学ではないので、18世紀に政府機関ができた、はるか以前からあって、いまは政府から助成金は受けているが、行政の支配をまったく受けていません。大学の教職員は公務員ではないので、行政の管轄には属さない。官僚支配を嫌い、自主性を尊重するイギリス伝統の組織であります。たとえば、ケンブリッジ大学では31あるコレッジごとに所有する資産の規模と内容には差異がありますが、最も富裕なコレッジの 『トリニティー』 では、60マイル離れたロンドンまで、他人の土地を踏むことなく行くことができた、といわれていたほどであります。手厚い教育ができるわけです。

 マーガレット・サッチャーは、政権末期の1988年に、重大な誤りをおかしました。それは、教育改革についてです。それまで、英国には大学が45しかなく、在学生も約26万人で、大学では授業料と寮費は無料だった。

 イギリスでは、大学は本当に学問をしたい者か高度な専門知識・技術を得るための教育機関で、一流企業や官庁に就職するための教育機関ではなかった。

  したがって、将来、国家のために役立つ者を育成するということで、教育費は国家が負担し、サッチャー政権になるまでは、その上に、生活補助の助成金まで与えていたのです。

   ところが、サッチャー首相は、日本の高度成長をみて、高等教育が充実しているせいだとして、これを見習って、従来の高等専門学校を、すべて大学に昇格してしまったのです。その結果、イギリスには、大学が45から165ほどになって、それまでのように、授業料を国家が負担できるはずもなく、現在、在学生は、年間 9千~1万2千ポンド (現行13万5千円~18万円) も負担しなくてはならなくなり、大きな社会問題になっています。

 その上、大学の質と学力レベルが著しく低下してしまった。 
 イギリス社会でよく聞く言葉に 『ノブレス オブリージ (nobles oblige) 』 があります。高い身分や富裕で良い教育を受けて、社会で優位に立つものに課せられた道義上の義務という意味です。それは、イギリスの上層階級に古くから浸透しているボランティア活動の根源で、人々は機会があれば慈善事業に参加したり、積極的に社会奉仕に寄与する。貧しい家の優秀で勤勉な子どもに突然、見知らぬ個人から教育費が贈られるという、信じられないことが、いまでも実際に起きています。

  これが 『パブリック・スクール精神』 となって現れる。ふだん、この上なく恵まれた環境で、いわば特権を享受している学生たちは、国難のときには、特権の享受と国家への忠誠と責務をパッケージにして、身を賭して尽くす。 『フェアプレイの精神』 とともに、パブリック・スクール教育では、スポーツや軍事教練などを通じ、厳しく叩き込まれます。

 それでは、イギリスでは、どうのように 「リーダー作り」 「人作り」 が行われているのでしょう。

  敗戦後すでに68年、わが国は、色々な “ツケ” を支払わされておりますが、なかでも一番大きなツケのひとつが教育問題でしょう。

  戦後、マッカーサー元帥の極めて巧みな方法によって、GHQから一方的に押し付けられた占領政策は、 「教育改革」 においても、マッカーサーの思惑通り、まさに功を奏したと言えましょう。

  現在、ほとんどの社会問題の原因になっている、わが国の教育制度をかえりみますとき、画一的な一律教育、偏差値など一元化にこだわる評価基準、学問とは全く関係のない皮相で、上っ面な学歴偏重、悪平等といえるほどの公平な教育──そうです、残念ながら、まったく、マッカーサーが意図した通りになってきたのであります。

  「能力のある日本を再び暴走させない」 ための、いわばドングリの背比べ方式ともいうべき、平均値を求める教育制度が、見事に定着して、マッカーサーは墓の下で 「わが意を得たり」 とほくそ笑んでいることでしょう。

 敗戦直後、GHQの 「教育改革」 によって、明治の初め、イギリスの教育システムを手本にしてできた、戦争に負けるまえの日本の教育制度が、国を富ませ兵力を増強させた、 「富国強兵」 により戦争を推進し、かつ階級制度の温床だった、との理由で全廃されました。

  明治5年 (1872年) 学校制度頒布以来、50年にわたり何度か改良をかさねてきたイギリス方式の教育制度が、教育には全くの部外者であるアメリカの軍人の手で、慌しく一掃されてしまったのです。

  現在の英国の学校系統図が、戦前のわが国のものと、全くよく似ているのは驚くばかりです。個性、能力に従って、様々な選択肢があること 、『人作り』 や 『職能を身につける』 こと、教育の多様性・創造力の涵養に力点をおくのが、イギリスの教育システムの特徴です。

 ちなみに、同じ敗戦国のドイツでは、戦争末期には国中が戦場となり、日本よりもっと悲惨な状態にあったドイツでは、アメリカ軍の 「教育改革」 の強制を巧みにはねつけ、占領期間が終結するやいなや、アメリカの各種の教育規制を、いちはやく撤廃しました。

  日本だけが、GHQの占領政策に、権威に屈していわれるまま、唯々諾々として従い、おまけに、その上に偏差値制度などを導入、さらに教育の画一化・一律教育を推進して、記憶力だけにたより入学試験技術だけを磨くことにより有名大学への進学過当競争に拍車をかけ、個性・創造力の涵養や情操教育をないがしろにして、「悪平等」にさらに上塗りをしてきました。

  驚いたことには、このマッカーサーの占領政策、すなわち植民地政策に、文部省も日教組も、上乗りして、子どもたちを洗脳し、大切な牙まで抜いてしまい、自助自立心が欠如した、礼儀作法もしらない、大人しい羊の群れに育てあげてきたというわけです。

 英国と比較して、いま、わが国の教育制度と社会システム上、大きな問題点が、ふたつあります。

   ひとつは 、『全人教育、いわゆる人格・情操を磨く教育が欠如している』  という問題。 もうひとつは、 『リーダー作り』  あるいは  『人材作り』  がなされていないという問題、この2点であります。

  英国の義務教育年限は、11年です……初等教育は、5歳からはじまり6年間、さらに中等教育が5年、計11年。その上に、2年間の進学準備期間があり、自分が本当に学びたい専門科目を選択して、中等教育の仕上げをします。続いて、戦前の日本の学校制度と同じですが、高等教育、高等専門学校や各種大学の通常課程が、3年から4年あります。

  子どもたちの個性・能力・家庭環境・境遇によって、多方面、多岐にわたって選択肢、選ぶ方向があるのです。教育の機会均等・自由平等・民主主義の、アメリカ方式といわれた、いわゆる6・3・3制の一律教育システムと比べてみてください。

  日本でも明治・大正初期生まれの親たちの子育ては、躾も家庭教育も基本に忠実であり、いわば、オーソドックスな子育てに徹していました。

  人間の人格の基礎は、幼稚園年齢のころまで、家庭を中心に形成されます。
「ひとの心を大切にする」 「ひとを正しく遇する」 「他人の痛みがわかる」 「家族や友を思いやる」 「自分で考えることができる」 「人の道に外れないように最低限の約束は守る」 「嘘はつかない」 「ありがとう。ごめんなさい。が必ずいえる」 「友と物を大事にする」 「我慢をする」 「苦しさに耐える」。

 これらは、どれもみんな簡単なことばかりですが、乳幼児・幼児期のころから、溺愛ではない、しっかりコントロールできた愛情に裏づけされた厳しい躾で、ひとつひとつ自覚させながら、いわば、皮膚から身につけさせることばかりです。

 また、これらが、家庭教育に引き続いて、戦前の学校教育の低学年では 『修身』 の時間に仕上げをする、社会道徳の基準だったのです。

 この育児・躾の方法は、どの国の親にも共通するものです。いまでも、イギリスのしっかりした家庭の親たちは、そのよな子育てを続けております。 


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